日本の歴史を変えたかもしれない「梶原景時」の話
【鎌倉時代はなかったかも】
昨日2/13放映されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、私の歴史的に興味深い場面の1つが一瞬流れた。中村獅童さん演ずる「梶原景時」である。
1180年8月、源頼朝が伊豆で挙兵するも頼朝軍勢300人対3000人の「石橋山の戦い」で大敗し敗走する。平家方大庭軍が頼朝の首を獲ろうと探し回るがなかなか見つからない。
頼朝は湯河原町の小さな洞窟(しとどの窟)で土肥実平・安達盛長らたった6騎と潜んでいた。探し回っていた武将の一人、梶原景時が洞窟の中を探し、頼朝と目を合わす。
ここで「頼朝を見つけたぞ!」と大声を出せば、頼朝は捕まり首を獲られていた。源氏による鎌倉時代など日本には存在しなかったわけである。
ところが違った。見つかり頼朝は自害しようとするが、景時は耳元で「お助けします」と呟き、「ここには誰もいないぞ!」と叫ぶ。大庭景親はなおも調べようとするが、「私を疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭は捜索を諦める。
そして、辛くも頼朝は船で真鶴から安房に逃げ切り、軍勢の再構築をはかることになる。そして関東武者の支援を受けて平家を打ち破り「鎌倉幕府」を作り上げることになる。
【鎌倉幕府の重要役職へ】
梶原景時の先祖は、「後三年の役」で源氏に味方してともに戦う。梶原氏は源氏の家人だったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。
その後平家軍は関東で頼朝軍と戦うが敗戦が続き、1180年12月に景時も頼朝に降伏する。頼朝はしとどの窟の景時を覚えていて、弁舌が立ち、和歌にも通じ教養のある景時を御家人として重用することにする。
景時は源義仲や平家追討するため義経と屋島など西国を転戦する。途中義経とは戦術を巡り何度も対立する。これが結局義経が鎌倉に入れず奥州平泉に逃げて絶命する遠因となる。
景時は、鎌倉幕府では侍所別当(次官)になり、御家人達の行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まる目付け役となる。頼朝には重要な役割を担った忠臣だったが、御家人からは恨みを買う立場だった。
1199年正月頼朝が急逝。頼家が家督を継いだが、すぐに幕府の13人の宿老による合議制がしかれ、景時もその一員となる。この合議制は数か月の短命に終わる。
1199年10月28日、不満を持つ御家人66名による景時糾弾の連判状が提出される。景時は抗弁せずに所領の相模国一宮(寒川町)に下向する。
1200年正月20日、一族とともに京都に上る途中で在地武士たちに襲われ一族は滅亡する。そこは北条時政の所領地だった。
景時追放の3年後、源頼家は北条氏によって追放され暗殺される。代わって実朝が将軍になるも、北条氏が実権を握り鎌倉幕府を支配していくことになる。
【鎌倉幕府が存在しなかったら】
では、景時が「頼朝がいたぞ!」と声を上げて頼朝が処刑されていたらその後の日本はどうなっていたのか。
平家の武家政権が正式に樹立されていたか。それとも不満を強く持っていた関東武士によってやはり武家政権が樹立されていたか。
後者であれば、当時の有力武士であった源氏の名門足利氏、上野国で有力だった新田氏、常陸国の佐竹氏などが担がれて政権を樹立したのか。さて。
昨日2/13放映されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、私の歴史的に興味深い場面の1つが一瞬流れた。中村獅童さん演ずる「梶原景時」である。
1180年8月、源頼朝が伊豆で挙兵するも頼朝軍勢300人対3000人の「石橋山の戦い」で大敗し敗走する。平家方大庭軍が頼朝の首を獲ろうと探し回るがなかなか見つからない。
頼朝は湯河原町の小さな洞窟(しとどの窟)で土肥実平・安達盛長らたった6騎と潜んでいた。探し回っていた武将の一人、梶原景時が洞窟の中を探し、頼朝と目を合わす。
ここで「頼朝を見つけたぞ!」と大声を出せば、頼朝は捕まり首を獲られていた。源氏による鎌倉時代など日本には存在しなかったわけである。
ところが違った。見つかり頼朝は自害しようとするが、景時は耳元で「お助けします」と呟き、「ここには誰もいないぞ!」と叫ぶ。大庭景親はなおも調べようとするが、「私を疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭は捜索を諦める。
そして、辛くも頼朝は船で真鶴から安房に逃げ切り、軍勢の再構築をはかることになる。そして関東武者の支援を受けて平家を打ち破り「鎌倉幕府」を作り上げることになる。
【鎌倉幕府の重要役職へ】
梶原景時の先祖は、「後三年の役」で源氏に味方してともに戦う。梶原氏は源氏の家人だったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。
その後平家軍は関東で頼朝軍と戦うが敗戦が続き、1180年12月に景時も頼朝に降伏する。頼朝はしとどの窟の景時を覚えていて、弁舌が立ち、和歌にも通じ教養のある景時を御家人として重用することにする。
景時は源義仲や平家追討するため義経と屋島など西国を転戦する。途中義経とは戦術を巡り何度も対立する。これが結局義経が鎌倉に入れず奥州平泉に逃げて絶命する遠因となる。
景時は、鎌倉幕府では侍所別当(次官)になり、御家人達の行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まる目付け役となる。頼朝には重要な役割を担った忠臣だったが、御家人からは恨みを買う立場だった。
1199年正月頼朝が急逝。頼家が家督を継いだが、すぐに幕府の13人の宿老による合議制がしかれ、景時もその一員となる。この合議制は数か月の短命に終わる。
1199年10月28日、不満を持つ御家人66名による景時糾弾の連判状が提出される。景時は抗弁せずに所領の相模国一宮(寒川町)に下向する。
1200年正月20日、一族とともに京都に上る途中で在地武士たちに襲われ一族は滅亡する。そこは北条時政の所領地だった。
景時追放の3年後、源頼家は北条氏によって追放され暗殺される。代わって実朝が将軍になるも、北条氏が実権を握り鎌倉幕府を支配していくことになる。
【鎌倉幕府が存在しなかったら】
では、景時が「頼朝がいたぞ!」と声を上げて頼朝が処刑されていたらその後の日本はどうなっていたのか。
平家の武家政権が正式に樹立されていたか。それとも不満を強く持っていた関東武士によってやはり武家政権が樹立されていたか。
後者であれば、当時の有力武士であった源氏の名門足利氏、上野国で有力だった新田氏、常陸国の佐竹氏などが担がれて政権を樹立したのか。さて。
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