初めて知った「木曽義仲」
【平家打倒の真の功労者】
木曽義仲というと、中学・高校の教科書では3~4行程度にしか記載がない。頼朝とともに平家打倒の兵を上げたが乱暴者で、最後は義経に討たれたとしか覚えていなかったが、5/11放送のBS11「とことん歴史紀行」を見てはじめてその詳細を知った。
【木曽育ち】
どうして木曽出の武士が平家打倒で挙兵したのか不思議だったが、その理由をはじめて知る。
義仲は1154年現埼玉県の武蔵の国に生まれる。父は、源氏の棟梁、源義朝(頼朝・義経の父)の弟義賢。兄弟争いから、義朝の長男義平に殺害される。
母は、2歳だった義仲を乳母の夫であった木曽の豪族中原兼遠に預ける。そこですくすくと育つが、木曽福島は中山道の京都と江戸のちょうど中間点に位置している。
【挙兵】
平安末期、京都は平家が日の出の勢い。1180年清盛が幼い安徳天皇を即位させ、平家への不満が爆発。後白河法皇の子以仁王が全国に平家追討を呼びかける。
これに応じ、伊豆では34歳の頼朝が、木曽では27歳の義仲が挙兵する。長野では、義仲は数々の奇策で、少数の軍勢ながら多勢の平家軍を打ち破って有名をはせる。
頼朝は、あろうことかこれに嫉妬と脅威を感じて、10万の兵で義仲を攻めに出る。義仲は、敵は平家、仲間うちで争っている時ではないとして、長男を人質に差し出して和睦する。長男は後に頼朝の長女と結婚する。
【有名な倶梨伽羅峠の合戦】
1183年義仲の進軍が続き、富山県最西端の倶梨伽羅峠で、平維盛率いる10万の兵と衝突する。義仲軍は5万。数では圧倒的に不利。
砺波山上に陣をつくる平家軍。義仲はじっと夜を待つ。今日は戦はないと鎧兜を脱いだ平家軍。そこに中国兵法を用いて夜襲する。数百頭の牛の角に火のついたたいまつを点けて急襲。慌てた平家軍は逃げ惑い、峠から谷に人馬が落ちてしまう。その数7万騎。
この大勝で一気に勢力を増し、2ヶ月後、源氏として京都に一番乗りする。義仲の進軍を聞き、清盛死後の平家はすでに西国に逃げている。
【そして人気急落へ】
人々は義仲を英雄として歓迎する。しかし、この時の京都は飢饉が続き人口35万人のうち餓死者4万人という地獄のような地。荒廃していた京で、北陸で加わった一部の兵が、食糧も与えられないため、民家などに狼藉を働くようになる。
義仲はこれを厳しく取り締まろうとするが、焼け石に水。天皇後継問題にも口をはさんだことも一因となり、義仲を「礼儀知らずの乱暴者」として後白河法皇は、頼朝に義仲討伐のため上洛を求める。
義仲は西国への平家追討での敗戦で軍を減らしたが、今日に戻り一時京でクーデターを断行して2万人の僧兵・武士を討ち取り法皇を拘束して政権を掌握し征夷大将軍に就任した。
しかし1184年1月、宇治川の合戦で義経に敗れて戦死する。享年31歳。翌年壇ノ浦で平氏が滅亡する。
【芥川龍之介と松尾芭蕉】
芥川龍之介が10代の時に「木曽義仲論」を書いた。「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。されども彼の生涯は男らしき生涯也」とその中で記している。
義仲が亡くなって510年後、松尾芭蕉は「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」と遺言した。義仲の墓は大津の義仲寺にあり、芭蕉の墓も巴御前とともにそこに並んでいるという。
木曽義仲というと、中学・高校の教科書では3~4行程度にしか記載がない。頼朝とともに平家打倒の兵を上げたが乱暴者で、最後は義経に討たれたとしか覚えていなかったが、5/11放送のBS11「とことん歴史紀行」を見てはじめてその詳細を知った。
【木曽育ち】
どうして木曽出の武士が平家打倒で挙兵したのか不思議だったが、その理由をはじめて知る。
義仲は1154年現埼玉県の武蔵の国に生まれる。父は、源氏の棟梁、源義朝(頼朝・義経の父)の弟義賢。兄弟争いから、義朝の長男義平に殺害される。
母は、2歳だった義仲を乳母の夫であった木曽の豪族中原兼遠に預ける。そこですくすくと育つが、木曽福島は中山道の京都と江戸のちょうど中間点に位置している。
【挙兵】
平安末期、京都は平家が日の出の勢い。1180年清盛が幼い安徳天皇を即位させ、平家への不満が爆発。後白河法皇の子以仁王が全国に平家追討を呼びかける。
これに応じ、伊豆では34歳の頼朝が、木曽では27歳の義仲が挙兵する。長野では、義仲は数々の奇策で、少数の軍勢ながら多勢の平家軍を打ち破って有名をはせる。
頼朝は、あろうことかこれに嫉妬と脅威を感じて、10万の兵で義仲を攻めに出る。義仲は、敵は平家、仲間うちで争っている時ではないとして、長男を人質に差し出して和睦する。長男は後に頼朝の長女と結婚する。
【有名な倶梨伽羅峠の合戦】
1183年義仲の進軍が続き、富山県最西端の倶梨伽羅峠で、平維盛率いる10万の兵と衝突する。義仲軍は5万。数では圧倒的に不利。
砺波山上に陣をつくる平家軍。義仲はじっと夜を待つ。今日は戦はないと鎧兜を脱いだ平家軍。そこに中国兵法を用いて夜襲する。数百頭の牛の角に火のついたたいまつを点けて急襲。慌てた平家軍は逃げ惑い、峠から谷に人馬が落ちてしまう。その数7万騎。
この大勝で一気に勢力を増し、2ヶ月後、源氏として京都に一番乗りする。義仲の進軍を聞き、清盛死後の平家はすでに西国に逃げている。
【そして人気急落へ】
人々は義仲を英雄として歓迎する。しかし、この時の京都は飢饉が続き人口35万人のうち餓死者4万人という地獄のような地。荒廃していた京で、北陸で加わった一部の兵が、食糧も与えられないため、民家などに狼藉を働くようになる。
義仲はこれを厳しく取り締まろうとするが、焼け石に水。天皇後継問題にも口をはさんだことも一因となり、義仲を「礼儀知らずの乱暴者」として後白河法皇は、頼朝に義仲討伐のため上洛を求める。
義仲は西国への平家追討での敗戦で軍を減らしたが、今日に戻り一時京でクーデターを断行して2万人の僧兵・武士を討ち取り法皇を拘束して政権を掌握し征夷大将軍に就任した。
しかし1184年1月、宇治川の合戦で義経に敗れて戦死する。享年31歳。翌年壇ノ浦で平氏が滅亡する。
【芥川龍之介と松尾芭蕉】
芥川龍之介が10代の時に「木曽義仲論」を書いた。「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。されども彼の生涯は男らしき生涯也」とその中で記している。
義仲が亡くなって510年後、松尾芭蕉は「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」と遺言した。義仲の墓は大津の義仲寺にあり、芭蕉の墓も巴御前とともにそこに並んでいるという。