歴史ミステリー「長篠の戦」
【1575年の有名な戦国決戦も諸説あり】
戦国最強と言われた武田勝頼の騎馬軍団と、天下取りを狙う織田・徳川連合軍が激突した天正3年5月21日の「長篠の戦」。
武田軍1.5万人対織田・徳川軍3.8万人で、織田・徳川連合軍の鉄砲隊3千丁の「三段撃ち」により武田軍に1万人以上の戦死者を出し、連合軍が大勝して、織田信長の天下取りが大きく開かれたと教科書で習ってきた。
その通説にこれまで大きな疑問が各方面から出されてきていて、これまでも私もいろいろ考えさせられてきたが、4/23放送のBS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」を見て、また久しぶりに考えさせられた。
【現地・設楽原では教科書にいう戦闘は無理】
現愛知県新城市にある決戦場の設楽原は、映像でみる限り非常に狭い谷合で、そもそも両軍合わせて5万人がぶつかり合い、火縄銃の鉄砲隊が千丁ずつ三段に分かれて撃つことなど物理的に無理でとても不可能に思える。
そして、武田軍にも鉄砲隊があったという。ただし、鉄砲の鉛の弾と火薬を入手することに大変苦労していて、銅銭までも溶かして使ったという。
織田信長は、堺での貿易で海外から鉛や火薬を大量に入手できて、その差が戦況を決定的にした。それでも、計算上30万発の弾丸が発射されたはずだが、現在まで発見された弾丸は12個のみというのを別の番組の現地博物館の説明映像で知った。
この戦いでは武田軍の数々の有名な武将が戦士しているが、鉄砲によるものではなく、刀や槍で殺されているという。そして古文書では、「武田の死者は千人」というものもある。
武田の有名な騎馬隊はそんなに弱かったのか?ポニーのような小さい木曽馬に乗っていたが、それでも時速30キロ位の速度はあり、弾を込める間に一気に突入できる計算になる。
戦闘時間は6時間に及ぶ。連合軍の馬防柵を2重目までは崩したそうだ。
戦いは新暦で6月29日になり梅雨の真只中。馬防柵前の田んぼは雨で馬の足を取られ進めず、騎馬は数少ないあぜ道を進むしかなかったという。そのため連合軍鉄砲隊の効果があったと番組は結んでいた。
そして、古文書では、武田の騎馬隊を記述した資料はなく、そもそも騎馬隊は存在しないこと、そもそも長篠の戦は無かったという説があることも別な資料で知った。
直後にあった信長が敗北した上杉謙信との戦いなどでは、どうして大成功した長篠の戦のような信長の鉄砲隊が登場しないのか不思議でもある。
これまで聞いてきた「長篠の戦」は、小瀬甫庵の「信長記」、旧陸軍参謀本部が1903年にまとめた「日本戦史 長篠役」によるものが大きいという。後者は日露戦争直前で、新型兵器の予算獲得キャンペーンにも聞こえる。
いくさ1つとっても歴史の奥は深いものである。
戦国最強と言われた武田勝頼の騎馬軍団と、天下取りを狙う織田・徳川連合軍が激突した天正3年5月21日の「長篠の戦」。
武田軍1.5万人対織田・徳川軍3.8万人で、織田・徳川連合軍の鉄砲隊3千丁の「三段撃ち」により武田軍に1万人以上の戦死者を出し、連合軍が大勝して、織田信長の天下取りが大きく開かれたと教科書で習ってきた。
その通説にこれまで大きな疑問が各方面から出されてきていて、これまでも私もいろいろ考えさせられてきたが、4/23放送のBS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」を見て、また久しぶりに考えさせられた。
【現地・設楽原では教科書にいう戦闘は無理】
現愛知県新城市にある決戦場の設楽原は、映像でみる限り非常に狭い谷合で、そもそも両軍合わせて5万人がぶつかり合い、火縄銃の鉄砲隊が千丁ずつ三段に分かれて撃つことなど物理的に無理でとても不可能に思える。
そして、武田軍にも鉄砲隊があったという。ただし、鉄砲の鉛の弾と火薬を入手することに大変苦労していて、銅銭までも溶かして使ったという。
織田信長は、堺での貿易で海外から鉛や火薬を大量に入手できて、その差が戦況を決定的にした。それでも、計算上30万発の弾丸が発射されたはずだが、現在まで発見された弾丸は12個のみというのを別の番組の現地博物館の説明映像で知った。
この戦いでは武田軍の数々の有名な武将が戦士しているが、鉄砲によるものではなく、刀や槍で殺されているという。そして古文書では、「武田の死者は千人」というものもある。
武田の有名な騎馬隊はそんなに弱かったのか?ポニーのような小さい木曽馬に乗っていたが、それでも時速30キロ位の速度はあり、弾を込める間に一気に突入できる計算になる。
戦闘時間は6時間に及ぶ。連合軍の馬防柵を2重目までは崩したそうだ。
戦いは新暦で6月29日になり梅雨の真只中。馬防柵前の田んぼは雨で馬の足を取られ進めず、騎馬は数少ないあぜ道を進むしかなかったという。そのため連合軍鉄砲隊の効果があったと番組は結んでいた。
そして、古文書では、武田の騎馬隊を記述した資料はなく、そもそも騎馬隊は存在しないこと、そもそも長篠の戦は無かったという説があることも別な資料で知った。
直後にあった信長が敗北した上杉謙信との戦いなどでは、どうして大成功した長篠の戦のような信長の鉄砲隊が登場しないのか不思議でもある。
これまで聞いてきた「長篠の戦」は、小瀬甫庵の「信長記」、旧陸軍参謀本部が1903年にまとめた「日本戦史 長篠役」によるものが大きいという。後者は日露戦争直前で、新型兵器の予算獲得キャンペーンにも聞こえる。
いくさ1つとっても歴史の奥は深いものである。